<   2010年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

町の職人さん

 メガネを新たに作りに出かける。
 今のメガネは、10年くらい前に作ったものなので、そろそろ良かろう。

 前回、気に入ったものを見つけていたので、心斎橋のメガネ屋さんで購入を決めた。心斎橋筋商店街の本町寄りの店で、洒落た店作りにはなっていたけれど、まぁ、「心斎橋筋商店街の本町寄り」(笑)なわけで、色眼鏡をかけて、声のトーンもしゃべり方も「ナニワ」な感じの小柄なおっちゃんが店長さんだった。「うーん。やっぱりキタか神戸で購入したら良かったかも」と思わせる、胡散臭さ。私の担当は若い兄ちゃんだったので、横目に観察をするのみ。

 すると。レンズが出来上がるのを待っている途中、そのナニワ店長がしゃべりかけてくる。「今のメガネの調子はどうですか?」と。実際、あんまり調子が良くなかったのでそのように伝えると、ちょちょいと具合よくあわせてくれた。そして、あっという間にレンズを外してしまい、分解して洗浄している!そんなメガネ屋初めて見たぞ。「えーー?そんなにすぐに外せるんですか?」と思わず聞くと、「ははは。そらぁ、プロですから」。
 おっちゃんの手技を見ているのは、とても楽しかった。メガネのことも、色々聞いた。最近は老眼で手元が見えにくくて、30代の頃が最も早かったらしいけど、スッと触って一発でサイズをあわせるのは、まさに職人技。若い店員みたいに「これで、大丈夫ですか?」などとは聞かず、「さぁ、これで、かけてください」と、色眼鏡の奥から自信たっぷりに、にっこりと笑うのだ。
 メガネって、ファッション以上に「道具」なんだなぁ、それを扱う人は「メガネ屋」ではなくて「眼鏡職人」なんだなぁと思った。思わせていただいた。
 私はこれから先もおそらく、と言うか確実に、メガネと共に生活しないといけない人生だと思うけれど、今後はきっと、この店に足繁く通うことになるであろう。足繁く通って、何も買わずにお茶を飲んで修理をしてもらったりするであろう。

 腕のいい「町の職人さん」(靴の修理とか傘の修理とか、草履の鼻緒をすげる人とか)に出会えると胸が弾む。お話しながら手元を見ている時間や、出会えた喜びも含めて、買っているみたいなものだと思う。

 思い出してみると、実家の祖母も「あれは○○はん。これは△△はん」というように懇意にしている人を持っていて、あんまりリーズナブルじゃない個人のもとへ「わざわざ」出かけていた記憶がある。そういうのを昔は、「アホの金持ちのやること」みたいで(おそらくは両親も)彼女をバカにしていた(でも職人さんのもとについて行くのは好きだった)。
 我が家は確かに「金持ち」の部類に入ったのかも知れないけれど(内情は知らんが)、親戚や近所の人たちは小さい私に向かって「あんたんとこは金持ちだから」とほとんど嫌味をよく言った。嫌われてたんだと思う。だから私は、「金持ち」と思われるかも知れないようなことは極力避けたかったし、恥ずかしくて仕方がなかった。

 今、そういうことから自由になってみて、残念ながら個人的にはあんまり「金持ち」じゃない大人になってみて、私は祖母のようなものの買い方を、やはり好ましく思っているのだということに気づく。
 ものを「買う」という行為には、高かろうが安かろうが、それだけじゃない意味と価値がある。そして私はどうやら、祖母という人が「アホの金持ち」だったかどうかの真意はともかくとして、そういう「お金」の使い方を割と粋だと思っているようだ。
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-29 23:44

西区の事件についてさらに想う

 ゴミを出そうと思って、新聞を読み返す。児童虐待の記事に目が留まる。
 大阪市は、虐待の通報があり緊急性がある場合は、消防隊員が現場に直行して窓枠を壊したりして中に踏み込んでもいいように「調整中」という記事。
 
 なんつう恐ろしい・・・。

 さすがに児童相談所の職員が、「児童相談所は子どもを引き離すことではなくて、その後家族が一緒に暮らせるようにするのが最終的な目的なのだから、それでは母親との信頼関係がとれなくなる」とコメントしていた。
 どこかから匿名の「通報」があり、消防隊員が突然やってきて我が家の窓を蹴破り、泣き叫ぶ我が子を「保護」していく・・・。まるで、「精神障害者」の歴史を聞いているみたいだ。どこかから「あそのこ家の人はおかしい」という通報が保健所に入り、警察と相談員がやってきて、入院させてきた歴史。

 子どもに罪はなく、保護すべきだから?そりゃそうだ。正し過ぎる。
 でも、子どもは親を庇う。どんなにろくでもない親でも、庇おうとする。
 一度、消防隊員に踏み込まれて「事なきを得た」子どもと母親は、その後はもっと必死に、自分たちのことを「隠そう」とするだろう。親は「泣くな」と怒るだろうし、子は声を押し殺して泣くだろう。責めるだけでは嘘隠しがうまくなるだけ。恥部をさらけ出せない社会ができるだけ。

 しかし、メディアが「住民からの通報」と言うとき、何の躊躇もなくそこには「善意の」という暗黙の前置きが存在するけれど、本当にそうなのか?
 「なんか、隣りの家の子どもの泣き声がうるさいんだけど、虐待じゃないの?」という電話をかける。名前も名乗らない。声もかけてあげない。どんな親子が住んでいるのかも知ろうとしない。でも「私はちゃんと通報しましたよ」という免罪符だけは得る。そういうことは想定しないのか?
 とんでもなく悪人の親が、いきなり虐待に及ぶわけじゃない。
 その「哀しさ」も分かろうとせずに、自らの手も汚さずに、通報するのは、「善意の市民」なのか?
 

 
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-29 22:31

串カツ

 身近な人の、あいまいな死の知らせが舞い込んできて、あいまいなだけに自宅で一人になりたくなくて、友人を呼び出してこんなに日に、梅田で串カツを食べてビールを飲んで笑う。

 お盆前の梅田は、いつもより人が多くてにぎわっていた。
 
 死というものは、時にあまりに身近で、ありふれていて、自分もそれに向かって生きている。
 それが恐いから人は、必死に働いたり笑ったり遊んだり泣いたりしているんじゃないかと、雑踏の中で思った。
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-14 00:02

西区の事件と相談援助について、まじめに語る

 大阪市の西区で、若いお母さんが子ども二人を殺してしまう事件が起きた。
 子どもたちも、お母さんも、早く「見つけて」欲しかったことやろう。

 今日の夕刊で、その事件を受けて大阪市が、市の児童相談所に警察官を配置することにした、とあった。「全国でも珍しいこと」とのこと。緊急通報があった場合は、まずは最寄の消防署員が駆けつける仕組みにもするらしい。
 
 今回の事件で、いろんな意見があると思うけれど、何度か訪問をした相談員はさぞ辛かろうと、どうしても思う。それを機に、自分たちの職場に警察官が「詰める」ようになることを、どんな思いで眺めるのだろうか。

 対人援助職と呼ばれる仕事をしていて、警察の介入を依頼することは年に数回だけれども、ある。しのごの言わずに救急車に乗せることもある。連れて行かれる後姿を見ては毎回、本当によかったのかと頬の奥が痛くなるし、逆に依頼しても全く動いてくれない「公的機関」に声が震えることもある。
 「危機介入」は、援助職の最も難しく最も大切なことの一つだと言われるけれど、例え「命」を理由にしても、本当にそれが「今」である必要があったのか、それは絶対にわからない。これで良かったと思うことなんて、きっとどこの現場でもないんじゃないだろうか。悩むし責める。
 でも、悩まなかったら、わかってしまったら、それは「終わり」だと思う。悩まなくてはいけないし、考えなくてはいけないし、そうやって自分の勘を磨いていくことが、せめてもの償いのようにも思う。

 今回のことに関して。
 児童虐待防止法では、職員は対象者宅へ踏み込んでいいことになっているし、「警察官の同行」がちゃんと記載されている。現場で、警察通報と介入が必要なときは必ずあるだろう。場合によっては、まずは救急通報という判断もあるだろう。信頼関係やプライバシーやらを踏みにじるリスクを犯してでも、それをしないといけないときは、どうしてもある。
 けれども、そこにはやはり、一つの見えない壁がなくてはいけないと思うのだ。「自分はそれをひとつ踏み越えたのだ」という自覚がないまま、絶対にやっちゃいけない。そして相談員(しかも公務員だし)には、そうやって悩んで苦しむ責務と自由と余裕が、ちゃんと与えられてないといけないと、私は思う。
 今回、警察官が児童相談所に常時「詰める」ことと、現場の相談員が判断してから警察に同行を依頼することとで、そんなにタイムラグが出来るとは思えない(同行依頼しても、警察官がすぐに動かなかったら話は別だけど)。でも、見えない壁が低くなってしまったことは、確かだ。

 実際には、自分の分野で長いこといると、「これは死ぬな(殺すな)」という勘が働くようになる(私はまだまだ)。電話対応だと、数分で状況判断と決断をしないといけないけれど、それは経験値を上げるしかどうしようもない。けれども、公務員で「相談員」と呼ばれる人たちは、多くが非正規職員や契約雇用で、ギリギリの人数でやっている。2年の任期の人に、「適切な危機介入」を求めるほうがおかしい。

 もしかしたら今回、児童相談所の職員は警察官が「詰めて」くれて、ホッとするかも知れない。
 追い込まれたとき、孤立無援が辛いのは、お母さんだけじゃなくて相談員も同じだから。でもその「ホッ」に、私は危うさを感じる。大阪市は、言い訳みたいに警察官を手配するなら、相談員の数を増やすのが先じゃないだろうか。
 
 なんの痛みも迷いもなく、警察官が登場するような社会は、私はイヤだなぁ。
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-11 00:55

洗う

 ここ数年、染物の衣類を好んで購入したりして、何着か手持ちができた。
 
 化学繊維ではない布は、理屈抜きで気持ちがよく、とても気に入っている。

 この前、思い切って久留米絣の着物を手洗いしてから、その干し上がりのフワフワ感が思いのほかよく、それ以来、染物を洗うことに小さな喜びを得るようになった。

 染物から出てくる「洗い汁」は、染物そのものの色とは違っていて、そういうのを見物したり、干しあがりがどうなるのかを想像したりも、楽しい。

 その昔フィリピンで、バラックのような集落にしばらくホームステイさせてもらった(フェリーで知り合った現地のお姉さんが、自宅に泊めてくれた)とき、「すべて手洗い」の生活をしばらくしてみて、「洗濯っちゅうのは、こういうことを言うのか」と、バカみたいに思ったものだ。村の人は恐ろしく洗濯が上手で、自分は「退化している」と、真面目に思った。
 しかし、と言うか、だから、というか、洗濯機は世紀の大発明だと思う。

 ただ、そんななかで、染物を「洗う」のは、「洗濯」とは違う次元で、なんかよきもの。
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-03 00:55

花火

 「世界一」と評されるPL花火を初めて見物した。

 バーベキューしながら花火待ちの、石川河川敷。
 ものすごい場所取り合戦かと思いきや、土手にはかき氷屋さんが来たり、金剛バスがのんびりと走っていたりで、なかなか和やかな夕暮れ時である。
b0180333_0105729.jpg

 この日は、昼間から田んぼの草刈を楽しんだので、日に当たって労働した身体に風が心地よく、小学生のときのプール帰りみたいな絶妙の疲労感を抱えて夕暮れ時。
 ビールを飲みつつ、親切な人たちが焼いて運んで来てくれる肉と野菜をつまみつつ、花火を見上げて寝転んで見る花火は、さすがにたいしたスケールであり、なかなか極楽な時間であった。

 写真に撮ってみても、「遠くの方がたいへんなことになっている」程度の感慨しかないけれど、同時に連発で上に下にガンガンあがって、夜空がひとつのキャンバスとでも言いましょうか。幼い頃からこれが「花火」だと思ってそだった南河内住民は、罪なものよ。
b0180333_0111488.jpg

 私のなかでの「花火」の原風景は、近所の「ふれあいまつり」の打ち上げ花火で、山の中腹から一発ずつ、もったいぶって夜空にあがった。夜空はひとつの・・・掛け軸とでも言いましょうか。
 それはいかにも夏の終わりの風景で、小さな自治体の花火大会なのだけれど、一発ずつけなげに夜空に花開くのが、最も切なく最も正しい「花火」であったと、私は今も思っている。

b0180333_020265.jpg
草ぼうぼうにて、
草刈り中。
[PR]
by bag-tentomusi | 2010-08-01 23:36


「知彩庵」より。日々の咀嚼と、紡ぐことば


by bag-tentomusi

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

b0180333_232545100.gif

外部リンク

以前の記事

2013年 11月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月

検索

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧